立憲民主主義の確立にむけて

            

48回衆議院議員選挙にあたって

 目次

 1状況の概要

 2改革の経緯

3保守とは

    4日本型ファシズム

   6統治構造と格差

7構造変動

 8再生戦略         

 

 

2改革の経緯これまでの社会経済構造の改革

○戦前までの改革

 ・いまから150年前の1967年に明治維新政府は徳川幕府から大政奉還(国の統治権)を受け、文明開化政策により封建的身分制度を廃止し近代資本主義システムを導入して、半文明国から脱却し西欧文明に列強追いつくために、近代的技術や制度を導入し富国強兵政策をとった。

 ・明治維新改革は当時の清国に見られた西欧列強の植民地化に対する危機感を持った下級武士が主導した支配階級の上からの保守改革であり、明治国家の立憲君主制は絶対的な天皇主権の下に臣民の権利は制約され、財閥企業や国策企業が市場経済を支配し、欧米先進国において近代社会の編成原理となった社会契約原理による国民主権や人権保障や自由市場は認められず、公共圏を担う資産と教養のある市民階層が十分に形成されないまま不公正な格差社会となった。

 ・「善の研究」で広く知られる哲学者の西田幾多郎は1931年に関東軍が起こした満州事変から進んだ日本の軍国主義化と全体主義化(ファシズム)の傾向に強い危機感を抱いていた。敗戦の年である19454月に彼は空襲の打つ続く中で高坂正顕宛ての書簡で、「力のみに頼る愚かさを指摘し高い理念を大事にしつつ地道に努力する必要を説き、「本当の日本はこれからと存じます」と記し、未来の世代に望みを託した。

 ・また、ナチス・ドイツが連合国軍に無常条件降伏した58日の3日後に鈴木大拙宛ての書簡で、「今の人は力の信仰の全体主義が新しい方向のように言うが、それは旧思想で最早時代錯誤であり、新しい方向は却ってその逆の方向に、即ち世界主義的方向にあって、世界は不知不識その方向に歩んでいるのではなかろうか」と記した。

 ・西田が死去した同年6月に国際連合を創設するための国際連合憲章がサンフランシスコ会議で採択された。同年7月に発表されポツダム宣言は軍国主義の除去、戦争遂行能力の破壊、そのためにする連合国軍の日本占領、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化等を定めた。8月初旬に連合国軍は広島と長崎に原爆を投下し、戦意を喪失した軍国主義・日本政府は815日に同宣言を受諾して無条件降伏した。

 ・ポツダム宣言では日本占領の解除条件として、軍国主義の除去、戦争遂行能力の破壊等を挙げていたが、1949年に朝鮮戦争の勃発により共産主義の防波堤として日本の再軍備がなされ、1951年に連合国とのサンフランシスコ平和条約の締結により国家主権を回復したが、戦犯官僚や財閥幹部が復権したため、戦後の政治経済の民主的改革が不十分となった。

○戦後民主改革の限界

 ・GHQの総司令官であるマッカーサーは日本の占領政策を実施するにあたって、20人ほどの政商を伴い、日本の政商との談合により占領経済の運営を実施した。また、当時、中国は蒋介石の国民軍と毛沢東の共産党軍の内戦状況にあったため、現地の社会経済状況を把握するため、日本軍部の諜報活動を担っていた右翼の幹部・組織を温存し利用した。その結果、現在でも、保守政治勢力の中核にはこれらの独善的ナショナリストが存在している。

 ・戦後民主改革で民主主義が正統化され、高度成長期に制度化が進んで、民主的体制が根づいていった。1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と言われ、プラザ合意の円切り上げによりバブル経済が発生し経済大国となり、日本の政治経済の仕組みが全面的に肯定された。

 ・飯尾潤・政策研究大学院大学教授によると、1980年代の日本の政治学界では、民主的体制の定着という点では、日本にもそれなりの歴史はあり、いつまでも政官財を通じての支配層がすべてを仕切っているという見方には無理があり、日本ではアメリカの多元主義と違って「仕切られた多元主義」、「官僚主導大衆包括型多元主義」等といった呼び方が提起され、「日本型多元主義」は民主的体制が定着した、と主張された。

 ・つまり、日本ではアメリカのように利益集団が自由に結成され、それらが消長を繰り返しながら、政治の主役となるのではなく、日本の政治では、政治活動の舞台があくまでも省庁の垣根を軸に結成されているが、日本の官僚制が自己完結せず、むしろ社会諸集団の結節点として多元的な利益媒介機能をはたしてしている。

 ・しかし、1990年初頭に株価と地価が暴落し、以降、約30年間経済成長が低迷するデフレ経済になり、失われた20年または30年と言われた。日米構造協議によるアメリカの圧力に隷従し市場の規制緩和と労働力の流動化が声高に叫ばれ、政治経済の構造改革が実施されてきたが、今日に至るまで東京に集中集積する産官財情からなる既得権益構造は抜本的に改革されていない。

 ・人口構造論的には、1990年代に全国的少子高齢化が進み、それに対処する抜本的政策が採られなかったため、1997年から生産年齢人口が減少に転じた一方で、高齢者人口が増加し高齢者に対する扶養力が低下しつつある。また、4度の過疎法の改定にも拘らず地方圏において過疎地域の人口減少と高齢化が止まらず、今日でも地方圏から大都市圏へ若年世代を中心に人口移動が増加している。

 ・意識面では、産官財情の多くのリーダーはバブル経済の崩壊以降、マネー・バラマキの経済成長政策がデフレ経済からの脱却や地方再生等の諸問題を解決できる唯一無二の政策であるという「成長神話」の固定観念(マインドセット)から思考停止状態に陥っている。現実を直視し日本の特性を生かして中長期的な明確な戦略目標を立てず現実の具体の問題の解決を図っていくことが出来ないでいる。

○新自由主義による行政改革

 ・イギリスの労働党政権によるケインズ的な福祉行政国家はイギリス経済の低迷と社会の硬直化を招いたとして、1970年代末にイギリスのサッチャー政権は市場の競争と効率を絶対視する新自由主義に基づき、これまでの「大きな政府」を改革し「小さな政府」に再編した。1980年初めにはアメリカのレーガン政権はこの政治路線を継承し、日本では1982年の中曽根政権以降の自民党および自公政権もこの政治路線を受け継いだ。

 ・日本社会にはびこる政官業の「鉄のトライアングル」を打破し、「護送船団方式」と言われる行政規制を改革することを目指し、これまでの「官僚内閣制の大きな政府」を改革して、内閣主導の小回りの利く「小さな政府」を創ろうとした。

 ・内閣機能の強化として内閣官房の充実と内閣府の設置が行われ、内閣総理大臣に重要政策決定権と調整機能が集中された。そのため、従来、内閣官房(首相官邸)のスタッフは30人ほどであったが、現在は定員1100人(府省との常勤併任900人)ほどに増員された。

・内閣府は内閣の置かれる行政機関であるが、「省」より一段上位に位置し国家行政組織法の適用がない。内閣官房は分担管理事務がなく、内閣の統轄機能を補佐する立場から内閣の重要政策に関する基本的な方針の企画・立案・総合調整を行う。

・内閣府には、経済財政諮問会議、総合学術会議、中央防災会議、男女共同参画会議などの「重要な政策に関する会議」があり、内閣の重要政策に関して行政各部の政策の統一を図っている。その結果、いまや内閣府のスタッフは13000人を超える巨大組織となっている。

 ・現在の内閣総理大臣は行政権力の集中により強大な許認可権と予算執行権を行使することができるだけでなく、議院内閣制の下では、与党の党首として政治権力をも集中でき、実質的に衆議院の解散権を自由に行使できるため、政権近くにいる政治家や高級官僚等は首相の意向を忖度することになり、お友達内閣からなる安倍政権(クローニー政権)はいわゆる安倍一強政権となり、行政権の私物化とも言える森友学園や加計学園等の疑惑を生み出している。

 ・このような状況は歴史的に形成されてきた欧米において国王の徴税権や司法権等の恣意的権力行使を規制する「法の支配」を基軸とする立憲民主主義に反するものである。

このページはクリエイト関西21が作成しました。20171015