「信仰と救いの確信を求めて」(2001.6.)
ー個人的な魂の悩みを契機にしてー
                                                                                 宮平光庸
目 次
T.はじめに
 A.本論の性格
 B.個人的な救いの確信とその動揺の経緯
 C.信仰の確かさと信仰の確信への希求
 D.論述の前提

U.本論
 A.信仰と救いの確信に関する二つの立場
  1.ローマ・カトリックの立場
  2.プロテスタントの立場

 B.代表的な福音主義者の立場
  1.福音主義の代表的神学者としてのJohn Stott
  2.福音主義の代表的説教者としてのMartyn Lloyd-Jones

 C.ウエストミンスター信仰告白(第18章)における
   救いの確信の三方
  1.実践的三段論法による方法
  2.聖霊の実による方法
  3.聖霊の証しによる方法

 D.問題の所在:「カルヴァンとカルヴィニストたち」の
   相異に関する見解
  1.R. T. KendallとPaul Helm
  2.村川 満と野村 信
  3.M. Charles BellとJoel R. Beeke
  4.D. A. Carson の批評

 E.救いの確かさ(Certainty)と救いの確信(Assurance)
  1.歴史的ピューリタニズムにおける客観的な確かさと
    主観的な確信
  2.ウエストミンスター信仰告白における客観的な確かさと
    主観的な確信

V.結び
 A.救いの確信に係わる別の視点
  1.聖餐論的視点
  2.教会論的視点
 B.個人的な今後の課題
  1.問題の所在:わたしたちの教理は真に聖書的か
  2.いわゆる「贖罪の範囲」の問題について
  3.「聖霊の証し」の聖書的な探求の問題について
W.主要な参考文献
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T.はじめに
A.本論の性格
これは論文というよりはむしろエッセイに属するものである。その理由は主観的な「救いの確信」(Assurance of Salvation)の問題は客観的な「救いの確かさ」(Certainty of Salvation)の問題とは異なり、その本来的な性質上、学問的な探究というよりは個人的な「悩める魂」の探求の軌跡を綴るものに過ぎないからである。
「救いの確信」に関する教理的探究という体系的な研究は、一神学生の能力を超えるものであることを充分自覚している。ここで筆者が試みていることは、現代を代表する福音主義者(神学者および説教者)が「救いの確信」の問題について共通の基盤としているウエストミンスター信仰告白の第18章「恵みと救いの確信について」を一つの手がかりとして一信徒の目から見た率直な印象を神の前に正直に語ろうとするものに過ぎない。

B.個人的な救いの確信とその動揺の経緯
私が「救いの確信」を与えられたのは、大学生のときにKGKの夏期学校に参加し、そこで「聖書信仰」を教えられるとともに、ハレスビーの『良心』を読むように導かれたときであった。『良心』の中では「青銅の蛇」の物語についてわかりやすく説明されており、自分の内にも蛇の毒がまわっていることを意識しながら十字架を仰いだ。これまでに経験したことのない平安と喜びを感じたのはそのときであった。もしそれを「救いの確信」と呼ぶことが許されれば、それが私の救いの確信であった。
私が救いの確信を与えられた根拠は、聖書信仰により、聖書を神の言葉として受け入れ、その聖書に基づき「三段論法」的に自ら納得させられたからである。すなわち、1)聖書には「信じる者は救われる」と書かれており、2)「私は信じている」から、3)「私は救われている」と、結論を導いたわけである。
しかし、やがて自分の心の中を聖書の光に照らされて「御霊の実」を内省しはじめると「これでも自分はクリスチャンと言えるのだろうか?」という意識が救いの確信を揺るがしはじめた。換言すれば、いわゆる「聖化」の問題に悩み始めたのである。とくに、ウエスレアンの完全な聖化を求めたが得られなかった。さまざまな「聖化論」の中で私が感動し、「アーメン」と唱和できたのは、一見してキリスト教の教えと思われる多くの命題に“I doubt it.”と正直に告白するJohn Charles RyleのHolinessとMartyn Lloyd-JonesのChrist our Sanctificationであった。とくにJohn Charles Ryleの諸著書に同感を覚えたため、Expository Thoughts on the Gospelsを読むようになり、その中で何度も出てくる表現が心に刻み込まれてしまった。それは“Let us never rest till we have the witness of the Holy Spirit.”というライルの熱心な奨励であった。私が「聖霊の証し」を求めるようになったのはそれからである。
ロイド・ジョーンズによれば「聖霊の証し」は最大・最高の確信であり、トマス・グッドウィンの言葉(“It is the next thing to heaven; you have no more, you can have no more, until you come thither. ”)を引用しながら“It is, in other words, the biggest and greatest experience which a Christian can have in this world. There is only one thing beyond that, namely heaven itself.”*)と語っている。John WesleyやD.L. MoodyのみでなくGeorge WhitefieldやJonathan Edwardsもそれを経験していた。「もし私にもそれが与えられればそのときこそ私は死んでもよい」と私は本気で願った。しかし、私は「聖霊の証し」の経験を持つにはいたらなかった。さらに、神学校のある授業のとき「予定論」に関する書物を翻訳されたこともある先生が「Mさんが選ばれているかどうかはわからない」と言われたこともあり「もしかして自分は予め遺棄された者に属しているのではないか?」という不安を払拭しきれなかった。もちろん、その先生を責める気持ちは少しもない。キリストを鏡として予定の問題を考える正しい見方も別の授業で教わったからである。ただ「救いの確信」の問題で悩んでいる人にとっては予定論の位置づけはカルヴァンの『キリスト教綱要』における取り扱いが適正であると私には思われる。

C.信仰の確かさと信仰の確信への希求
私が信仰と救いの確かさの問題や、信仰と救いの確信の問題を探求し始めたのは、単なる三段論法的な救いの確信に満足できなかったからである。現実に、自らの中に根強く残る罪からの「聖化」の問題、「聖霊の証し」の問題、および「選び」の問題に関連して、個人的な救いの確信を得たいためであった。
様々な不安や不確実性の支配する世の中にあって、クリスチャンがその生活の基盤とする信仰について「確かさ」や「確信」を求めるのはごく自然なことであると思われる。それは改革派教会の偉大な先人たちの信仰探求の経緯にも見られることである。例えば、Herman Bavinck の The Certainty of FaithやLouis Berkhof のThe Assurance of Faithが著わされたことからも容易に理解されよう。

D.論述の前提
当然のことながら、もし救いの確信の大前提が聖書の無謬性にあるとすれば、聖書の確かさについても確認しておく必要がある。学生のころ教えられた「聖書信仰」とは、聖書の無謬性を信じる信仰であった。ところが、後になって、科学的および歴史的な記述に関する聖書の「無誤性」が問題になり、ここでも私の心の平安は揺さぶられてきた。
それまでは、キリストおよび聖書の両者について「神の言」といわれるとき、それを同じレベルで受け取り、キリストの無罪性、聖書の無誤性と理解していた。しかし、聖書の無誤性については、キリスト論的に理解するものではなくて、聖霊論的に理解するものであることをファン・ルーラー・ゼミで教わった。そのとき、私のすべての基盤である神の言としての聖書に関する確信と平安が戻ってきた。

U.本論:一般的論述
A.信仰と救いの確信に関する二つの立場
個人的な魂の悩みを契機にして「信仰と救いの確信を求めて」いこうとしても、私自身はすでに歴史的な制約の中で育ってきており、客観的かつ中立的な立場から論述し始めることはできない。すなわち、キリスト教に接した段階から福音主義の土壌に育てられて養成されてきた視点しか持ち合わせていないが、可能な限り視野を広げてキリスト教全体の視座からみれば、ローマ・カトリックの立場にも触れる必要があるのみでなく、もしかしてそこから何か有益なヒントを得られるかもしれない。

1.ローマ・カトリックの立場
言うまでもなく、カトリックの立場では、救いの「確信」を得ることが教理的に容認されていない。それは、むしろ不遜なことであり、キリスト者は救いの問題に関しては、教会の教導に信頼しながら信仰生活をしなければならない。
すなわち、『カトリック教会文書資料集』によれば「罪を赦され義化されるためには赦され義化されると確信することであり、自分が義化されたと信じなければ誰も義化されない、そしてこの信仰だけで罪の赦しと義化を得るという者は排斥される」と明記されている。
Herman BavinckはThe Certainty of Faithの中で“The Roman Catholic Church, following St. Augustine, even denies the possibility that a Christian can be sure of his eternal salvation apart from a few exceptions and then only by a special revelation from God.” と述べている。1)

2.プロテスタントの立場
これに対して、宗教改革の伝統にしたがうプロテスタントの立場では、むしろ、救いの確信を求めることは、聖書の教えからして正当なことであり、不遜なことではなく、むしろ望ましく、また必要なことである、とされている。
Louis BerkhofはThe Assurance of Faith の中で“The Reformers rejoiced in the assurance of salvation as a tower of strength. This Christian certitude made them irresistible in their attacks on the church of Rome ---.” とカトリックに対抗するプロテスタントの立場を明言している。2)

B.代表的な福音主義者の立場
プロテスタントの中でも聖書信仰を基盤とする福音主義の立場についてみれば、
概ね次の二人の見解に代表されるとみてもよいだろう。

1.福音主義の代表的神学者としてのJohn Stott
ローザンヌ宣言の起草者として世界的に著名なジョン・ストットの著作は広範囲にわたるが、その代表的な著作の一つである“Basic Christianity”の中で、救いの確信について次の3つの方法を紹介している。すなわち、1)神の言である聖書の約束、2)聖霊の実、および3)聖霊の証しによる救いの確信がそれである。これは、言うまでもなく、ウエストミンスター信仰告白(18章)の影響であると思われる。

2.福音主義の代表的説教者としてのMartyn Lloyd-Jones
エミール・ブルンナーをして「20世紀の最大の説教者」と言わしめたロイド・ジョーンズは、その影響力の大きな講解説教者として世界的によく知られている。その立場も基本的にはジョン・ストットのそれと同じである。もっとも、ロイド・ジョーンズの場合には、中でも「聖霊の証し」が最高の確信として強調されている。これは、ピューリタン神学者の中でも、とくにトマス・グッドウィンの影響が大きいと思われる。

C.ウエストミンスター信仰告白(第18章)における救いの確信の三方法
救いの確信について福音主義の立場の源泉がウエストミンスター信仰告白(18章)に遡及されると思われるため、その問題解決の手がかりをそこに得ることが適切だと考える。ウエストミンスター信仰告白において「救い」と「救いの確信」が区別されていることは特徴的なことである。思うに、これは当時のキリスト者の中には救いの確信について不安定な人が多く、そのようなキリスト者を慰めることに主眼点があったであろうことが推察される。それはおそらくドルト信条作成の場合と同様であろう。けだし、信条作成の背景には、神がイザヤに語りかけられたのと同じ言葉が反響しているに相違ないと思われるからである。すなわち、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(イザヤ書40:1)という心の奥底から湧いてくるパッションである。
ウエストミンスター信仰告白の第18章「恵みと救いの確信について」によれば、「救い」を受けたものが、その「救いの確信」を得る3つの方法が明記されており、その要点は下記のとおりであるが、その特徴的なことは「聖霊の証し」について明記されていることである。これはドルト信条についても同様である。すなわち、ドルト信条(10項)においても次のように明記されている。
“This assurance, ---springs from faith in God’s promises, which He has most abundantly revealed in His Word for our comfort, from the testimony of the Holy Spirit witnessing with our spirit that we are children and heirs of God (Rom. 8:16)---”

1.実践的三段論法による方法
これはいわゆるPractical Syllogismと呼ばれるるものである。すなわち、聖書によれば「信じる者はよき業に励む」はずであり「私にもよき業が認められる」から、「私は選ばれている」と三段論法的に結論を導くわけである。これは「マックスウェーバー・テーゼ」に関係するものであるが、聖書的な予定論の理解が歪められて解釈され「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の関係に関する誤った理解が生じたものと思われる。なお、Robert ShawのThe Reformed Faith (An Exposition of the Westminster Confession of Faith) においては、次のように説明されている。
“Assurance is generally attained by a sort of sacred syllogism, or reasoning in this manner:- Whosoever believeth in the Lord Jesus Christ is in a state of grace, and shall be saved. But I believe in him; therefore, I am in a state of grace, and shall be saved.”(p. 184)

2.聖霊の実による方法
これはガラテヤ5:22〜23にあるように、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるから、自ら、このような実を確認していくことを通して、死から命へと変えられてきているものとして、自分の救いの確信を持つように導かれるわけである。もし、聖書的な聖化が漸進的なものであり、パーフェクショナリズムでないならば、まだ罪の残滓が認められ、完全な聖化に達していなくても、この方法の適用により失望することはないはずである。

3.聖霊の証しによる方法
これは、まさにローマの信徒への手紙8章16節に「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と書かれている通りである。Robert Shawによれば、「聖霊の証し」の様態(manner)については意見が異なるとしている。ある者は直接的な方法(immediate way)であるとし、他の者はそれを拒否している。ここで留意すべきことは、救いの確信が以上の三方法の一つのみに基づいているのではなく、それらのすべてが結合されたものに基づいていることである。

D.問題の所在:「カルヴァンとカルヴィニストたち」の相異に関  する見解
福音主義教会はプロテスタント教会と同義語的に用いられることもあり、言うまでもなく宗教改革の流れに由来するものである。そこで、「信仰と救いの確信」に関する問題もその理解が宗教改革の路線に沿ったものであるか否かが問われることになる。カルヴァンがプロテスタント教会の法王でないことは自明のことであるが、不思議なことに、神学的な議論がなされるときには、しばしば聖書的思考の試金石のように、カルヴァンとの連続性が引き合いに出される傾向がある。近年、再び「救いの確信」や「贖罪の範囲」などの問題をめぐって、広義における「福音主義」の立場の中で、意見の対立が表面化してきている。その契機となったのは、R. T. Kendallの博士論文“Calvin and English Calvinism to 1649”3)である。そのケンドール論文をめぐって、海外では、Paul Helmの“Calvin and the Calvinists”の応答があり、国内でも、関西学院大学の村川先生や東北学院大学の野村先生の論文が発表されてきた。そこで、それらの概要を簡潔にまとめるとともに、近年、話題となっている、Charles Belllの立場と、Joel R. Beekeの立場を対比的に紹介したい。

1.R. T. KendallとPaul Helm
ケンドール論文の内容を一言で表現すれば“The English Puritans were followers of Beza and not of Calvin himself.”というきわめて刺激的な発言である。さらに、カルヴァンが主張しなかった「制限的贖罪」の教理はベザが主張したものであり、後にピューリタニズムが過剰な内省(introspection)や律法主義(legalism)として誤解されるに至る原因である、としている。このケンドール論文は、J. I. Packerの“Dr. Kendall’s exciting study --- is a major step forward in the reappraisal of Puritanism --- no student in the Puritan field can excuse himself from reckoning with this important contribution.”という書評に加えて、Carl F. H. Henryの“His claims should serve to stimulate an illuminating new era of Calvin studies.”と評価され、注目されるようになった。
一方、Liverpool UniversityのPaul Helm教授は“Calvin and the Calvinists”4)を出版し、ケンドール論文によって引き起こされた論点に対して、もしそれが真実であれば、福音主義的信仰と生活の枠組みは非聖書的なものとして真のキリスト者の生活を脅かすものとなるとした。また、ピューリタン神学の中心的なテーマがキリストの贖罪、信仰の確信、およびキリスト者の回心であったと明示し、ピューリタン神学がカルヴァンと一致していると主張し、カルヴィニズムを擁護した。

2.村川 満と野村 信
わが国でもケンドール論文は反響を呼び、関西学院大学の村川教授5)と関東学院大学の野村助教授6)とがそれぞれの立場と信念を反映された形での諸論文が発表されている。その特徴的な点は、前者がポール・ヘルムの立場に近く主に「救いの確信」の問題を取り上げており、後者がR・T・ケンドールの立場に近く「制限的贖罪」の問題を中心に取り上げているが、詳細は割愛したい。ただ、「救いの確信」の問題は「制限的贖罪」のほか「聖化」および「聖霊の証し」の問題とも関係しているので、これらを総合的に取り扱う必要があるように思われる。

3.M. Charles BelllとJoel R. Beeke
Charles Bellの“Calvin and Scottish Theology―The Doctrine of Assurance”7)の終章に紹介されているJohn McLeod Campbellの主張は慰めに充ちたものである。キャンベルは、19世紀のスコットランドの偉大な神学者とされており、彼の信仰の確信に関する関心は、思弁的なものではなく実際的なものであった。彼は、当時のスコットランドにおいて、キリストはすべての人のためではなく特定の人のためにのみ死なれたという“high Calvinism”の影響下において、自らの選びの証拠を内省的に検証することを教えられてきた人々が救いの確信と喜びのない律法主義的な緊張関係の中で苦悩してきている雰囲気を感じ取り、新約聖書の教会で見られた喜びに満ちた信仰を対照的に提示したのである。その中心的な主張は、「人間は自分に対する神の愛について確信を持たない限り、喜んで神を礼拝することはできない」というものである。彼が主張したのはいわゆる「ユニヴァーサリズム」ではなく「聖書の教えによれば、神はキリストの贖罪の御業により、すべての人の罪を赦されたのであり、まさにその理由によってすべての罪人は神の愛を確信して神に立ち返るように呼びかけられている」というものであった。彼にとって「重要なことはすべての教理の基礎が聖書のみにあり、教理が聖書と調和しているか」ということであった。彼にとって「受肉と贖罪の事実は神の愛と恵みの決定的な証拠」であった。彼によれば「神が愛であることが最も大切な宣教内容であるにもかかわらず、人々が最も信じ難いのは神の愛である」。「贖罪の御業とは、神が罪人を赦す愛の現実的な表明」であり、救いの確信の教理的基盤は正にそこに置かれている。「キリストがすべての人のために死なれたのでなければ、福音において提供されているキリストを、普遍的に宣教することはできず、救いの確信の基盤はない」というのが彼の主張である。彼によれば、「すべての人のための贖罪の御業こそが、救いに関する不確実性を除去できる」ものである。さらに、彼にとって、救いの確信の根拠は“extra nos”にある。8)
(私自身これを読んで思弁的にではなく現実に「これが聖書の教えであるなら私も救いの確信を持つことが許されている」と悩む心が慰められるのを感じた。ここで、重要なことは、自分の願いどおり慰められることではなく、その慰めが真に聖書的な教えに基づいていることである。)

ここで、上記のキャンベルとは立場が異なるが注目したい神学者は、その博士論文“Assurance of Faith ― Calvin, English Puritanism, and the Dutch Second Reformation”9)の著者であるJoel R. Beekeである。彼はピューリタン神学における「救いの確信」の教理についての著名な研究者であり、またThe Puritan Reformed Theological Seminaryの教授である。その論文の結論を先に言えば、基本的には、Paul Helmと同様であり、カルヴァンとピューリタンたちの連続性を認める立場がとられている。
ビークによれば、宗教改革者も宗教改革の後の神学者も、確信の規範性を否定したローマ・カトリックとの戦いにおいて、聖書に至高の権威を認めたことのゆえに、生きた信仰とともに、確信を失い得る可能性を伴いながらもある種の規範的な確信を聖書の中に苦闘しながら追求したのである。旧約聖書(詩篇38篇のダビデ、詩篇73篇のアサフなど)においても、新約聖書(ペトロの手紙二1:10など)においても、キリスト者の生活には確信を欠く可能性が示されており、それにも拘わらず、信仰の確信に達するようにとの奨め(ヨハネ第一の手紙5:13、ヘブル人への手紙10:22など)がなされている。
これらの確信の根拠について深く注解が試みられたのが英国のピューリタニズム、およびオランダの第二次宗教改革においてであった。とくに、ビークの論文にみられる特徴は、彼がオランダにおける第二次宗教改革を重視している点である。これは、Arnold van Rulerも大きな関心を示したいわゆる“bevinding”(教理の生活化を強調する信仰に不可欠な経験のこと)に係わるもので、宗教改革の原理を生活の中でも徹底させようとするときに直面せざるを得ない問題である。それはまさに、イギリスのピューリタンたちが目指したことのオランダ版と言えるだろう。
ビークによれば、宗教改革後の神学者たちが救いの確信の教理をさらに明確に発展させたのは、キリスト論的な枠組みから三位一体論的(聖霊論的〜筆者注)枠組みにおいてであり、しかもそれを神学的とともに牧会的な配慮の下に行なったのである
たとえこの世においての確信は不完全であるにせよ、それは恵の手段を通して熱心に求められるべきものである。ここで聖霊の証の重要性を強調したのは、英国よりもオランダの人々であった。そして、英国のピューリタンたちとオランダの第二次宗教改革の神学者たちを統合したのがトマス・グッドウィンであった。真実な信仰の確信は敬虔な生活に現れてこざるを得ない。しかし、救いの確信と救いとは同一ではない。救いの確信の根拠は神の約束にあり、それは私たちの心と生活に適用されなければならない。

聖書的な救いの確信の教理は客観的な「神の約束」、主観的な「聖化」、および、「聖霊の内的な証し」を内包するものであり、これら3つこそ、ウエストミンスター信仰告白第18章の内容に他ならない。ビークによれば、人を救うのは信仰ではなくイエス・キリストへの信仰であり、さらに、それはイエス・キリストへの信仰というよりも、イエス・キリスト御自身なのである。10)

4.D. A. Carson の批評
D. A. Carson 11)は「救いの確信」に関する論文(Reflections on Christian Assurance)で、次のような驚くべき発言をしている。12)
“So far as I know, there has been no English-language, full-scale treatment of the biblical theology of Christian assurance for more than fifty years.”
その批評対象の中には、R. T. Kendall のほか、M. Charles Bell やJoel R. Beeke も含まれている。
カーソンによれば、救いの確信の問題が熱烈に論じられてきた契機は、ケンドールとベルの著作にある、としている。ケンドールについては、英国のカルヴィニズムがカルヴァンよりもむしろベザの影響を受けた、と指摘した点は上述のとおりである。また、ベルについては、カルヴァンが救いの確信を extra nos に基礎づけたのに対して、スコットランド神学は救いの確信を intra nos に基礎づけるようになってきた、としている。ビークの評価については、カルヴァンとカルヴィニストたちの相違が質的なものというよりは量的なものとみた、としている。
総じて、これまでの確信に関する議論は、信仰義認という法的な概念によって支配されてきたが、「聖霊」と「新しい契約」に係わる「力」と「変容」(transformation)という概念について無視してきたとしている。つまり、新しい契約の民に与えられている「新しい心」と「聖化」(holiness)の中に生きる霊の力が基本的な要素である、としている。
この問題領域で混乱が生じる主要な理由は、法的な概念を擁護し契約的側面を無視することに起因する、としている。また、新しい契約の性質からして“extra ecclesiam nulla salus” ということに確かな意義がある、としている。さらに、真の信仰はその定義からして堅忍するものであるところから「堅忍」のないところに真の信仰はないことに言及している。神がその選民を保持される一方、信徒が新しい契約を信じて堅忍することは、「神の主権」と「人間の責任」を取扱う領域の事柄であるが、カールソンによれば、「選び」、「苦難」および「祈りの性質」の問題とともに「クリスチャンの確信」の問題もこの“compatibilism”に係わる問題である、としている。
また「クリスチャンの確信」の問題には牧会的次元(pastoral dimension)もあり、われわれはそのことを知っているべきであった、としている。結論的に、救いの確信の基礎はキリストとその御業にあるが、その根源は神のご性質、新しい契約の性質、究極的な選び、および、神の愛である、と結んでいる。

E.救いの確かさ(Certainty)と救いの確信(Assurance)
1.歴史的ピューリタニズムにおける客観的な確かさと
  主観的な確信
ウエストミンスター信仰告白の底流には、ピューリタンの「契約神学」があり、その中心は旧約聖書と新約聖書を一貫して流れている「恵みの契約」という考え方として理解できるだろう。
John von Rohrの“Covenant and Assurance in Early English Puritanism” 13)という論文によれば、“That this assurance could be obtained was a commonly accepted axiom and, indeed, the actual striving for such awareness was a commonly recognized obligation.”と、契約神学のもとでは、「確信」は明らかに求められるべきものであり得られるべきものであった。そこでは、William Amesの言葉“The assurance of our calling and election is a thing greatly to be desired------ is not only possible for us to attaine unto, but also --- it belongs to our duty to make this our calling and election sure.”が権威あるものとして引用されている。アダムとの業の契約があったが、堕落によって、恵みの契約が制定され、“all attempts to provide certainty were channeled through the covenant idea.”とされている。また主の晩餐が“certification of covenant-membership”になったと記されている。さらに、大胆に“Even the continuance of sin is not disruptive of the covenant relationship and should provide no cause for despair. Covenant is an avenue of grace. Through it God forgives sins.”とまで言われている。契約神学の下では「契約の確かさ」(certainty of contract)が救いの「確信の唯一の基盤」(sole basis for assurance)である。

2.ウエストミンスター信仰告白における客観的な確かさと
  主観的な確信
ウエストミンスター信仰告白においては、救いの客観的な確かさは「聖徒の堅忍の教理」にあり、救いの主観的な確信は「救いの確信の教理」にある。さらに、「聖徒の堅忍の教理」の背景には神の聖定に基づく「恵みの契約」があり、そこに救いの客観的な確かさの根拠がある。14)
人が救われるのは「救いの信仰」(saving faith)によるのであり「救いの確信」(assurance of faith)によって救われるのではない。信仰に救いの確信が伴わなければ人を救う本当の信仰ではないとは言っていないのである。岡田稔著『解説ウエストミンスター信仰告白』によれば、それは「有効召命」によって自覚させられた「新しいわたし」の「わたしを呼ばれた神の招きの声」への答えとも言える、としている。換言すれば、それはファン・ルーラーが“ik geloof”で適切にも言い表している「やまびこ」すなわち「神の声の反響」(die Tochter der Stimme)と同じ理解である。これは実に慰めに満ちた教理である。それは、証拠聖句に裏付けられているとともに、信仰者の現実の経験を見事に反映したものである。その信仰には大・小、強・弱の差があるとしても「恩恵の手段」である御言葉と礼典と祈りを通して涵養され、ある意味で苦難も恩恵の手段に数えられている。
さらに言えば、「確信は信仰の本質に属するものではない」(---assurance doth not so belong to the essence of faith---)としている。これは、一見して「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11:1)と矛盾するように聞こえるかもしれない。しかし、それは信仰の在り方の目標を示すものであって、信仰の力は信仰の主体者の信仰そのものに存するのではなく、信仰の客体者が契約に忠実で完全に信頼され得る神であることに存する。
ヘブライ人への手紙11章に出てくる信仰者たちの信仰が神に認められたのは、その信仰それ自体の力ではなく、不可能を可能とし、呪いを祝福に変えられる神の力(まさしく十字架がそれを啓示している)をただ信じたからである。信仰とは神を指向する方向性に他ならない。そして悔い改めとは神以外のあらゆる偶像への指向性を神への指向性へと方向転換することに他ならない。

V.結び
A.救いの確信に係わる別の視点
1.聖餐論的視点
個人的な証しであるが、揺らぎはじめていた私の救いの確信が回復されはじめた実際上の契機は、私がコリントの信徒への手紙11章にある「血による契約」についての奨励を準備し黙想しているときであった。契約を忠実に守られる神が、第二のアダムであるキリストのいわゆる自己呪詛的な「恵みの契約」において、第一のアダムが罪を犯して「業(命)の契約」が失効しようとするきに、人間ではなく、真二つに引き裂かれた動物の間を通られた神ご自身が、人間に代わって自ら呪いの十字架につけられたという確かな片務契約を心底から納得させられたときである。(それは不動産賃貸借契約において、賃料不払いが生じても、連帯保証人の保証により契約の失効を免れるケースと類似しており、その片務契約的内容はOld and New Testamentの「遺言」的「契約」として理解されるときに最も明確になる。)
しかも、信仰を強調しすぎるときにしばしば陥りやすい信仰の内省化から、信仰の視線を十字架に向けて「義人は信仰によって生きる」ことの深い意味を「義人は神の(契約に対する)真実(誠実)によって生きる」ことをハバクク書2章4節の釈義を行いながら学ぶことが許された
ここで、主観的な(intra nos)「救いの確信」は、客観的な(extra nos)「救いの確かさ」に圧倒的に依拠せしめられる。その意味で、御言葉の説教とともに、主の晩餐が守られ、そこにおいて主の葬式的意義を感謝するとともに主との結婚式的意義を喜ぶような、すなわち、救いの確信が深められるような公的礼拝を守る必要性が痛感されるように思われる。このことは同時に、次に述べるように、教会論的な礼拝の場において生じる出来事を想起させるものである

2.教会論的視点
これも個人的な証しであるが、私は正直に言って「命の書」に自分の名が記されているという確信が持てなかった。しかし、フィリピの信徒への手紙(4:3)を見れば、パウロは命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちのことを確信していた。そのことから信仰の共同体ないしは運命共同体としての教会の存在を覚えさせられるのではないだろうか。確かに、救いは個人的な信仰の事柄であるが、同時にそれは、信仰の共同体である教会論的な事柄である。この点については、プロテスタントもカトリックの教会重視に学ぶべきであろう。
ローマ人への手紙8章16節において「聖霊の証し」について語られているのは、個人的なレベルのことではなく、「わたしたち」が神の子供であることを、「わたしたち」の霊と一緒になって証ししてくださるというのである。このような「聖徒の交わり」の中で「聖霊の証し」を経験することが許されるのは、それが基本的には信仰の共同体であり聖餐共同体である教会の「礼拝の場」において感じられるものだからではないだろうか。礼拝における御言葉の説教と主の晩餐を通しての神の語りかけに対する応答こそ「アバ父よ」というわたしたちの祈りであり、主の祈りで「天にましますわれらの父よ」と祈るときに、わたしたちが神の子供たちであることが証しされているのである。
ちなみに、このような理解はケーゼマンの『ローマ書注解』(8:16)によっても納得させられるように思われる。

B.個人的な今後の課題
1.問題の所在:わたしたちの教理は真に聖書的か?
以上を総括すれば、問題の所在は「カルヴァンとカルヴィニストたち」の一致や不一致にあるのではなく、私たちの信じている教理が真に「聖書に一致しているか」という一点にあるように思われる。もちろん、そのような問いに対する解答は歴史的な制約を受けざるを得ず、宗教改革者やその後の神学者の諸見解を重要な伝統として尊重しなければならない。しかし、そのような努力の中心は、人間的な系列の連続性を確認することにあるのではなく、根源的な規範である聖書の教えを理論的にも実際的にも、教理的にも生活経験的にも、正しく理解し良心的に納得できるか否か、に存するように思われる。

2.いわゆる「贖罪の範囲」15) の問題について
この問題は、いわゆる「制限的贖罪」か「普遍的贖罪」かという中心的な問題であり、両者の主張が簡単に合意に達し得る問題ではないと思われる。
ここで、「制限的贖罪」の立場にたつ見解と「普遍的贖罪」の立場にたつ見解について、代表的な聖書個所であるヨハネの手紙一2:2「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」を中心として、その一般的な釈義の概要をまとめると、おおむね、以下のようなものになると思われる。
(制限的贖罪の立場)
「わたしたち」と「全世界」に関する釈義の可能性は下記のようになろう。
1)地理的区別:「わたしたち」は小アジアの選民を意味し「全世界」は小アジア以外の選民を意味する。
2)民族的区別:「わたしたち」はユダヤ人の選民を意味し「全世界」は異邦人の選民を意味する。
3)時代的区別:「わたしたち」は一世紀の選民を意味し「全世界」はそれ以降の世紀の選民を意味する。
(普遍的贖罪の立場)
上記の解釈に対して、次のように主張される。
1)「わたしたち」はすでに救われた人とともに将来に救われるであろう人を含
む。一方、「全世界」は救われない人を含む。
2)「全世界」が必ずしも「すべての人」を意味しないことはヨハネ12:19の「世をあげて」が「すべての人」を意味しないことから明らかである。しかし、それが「選民」のみを意味するような例はどの辞書にもなく考えられない。
3)「全世界」という言葉はヨハネの手紙一5:19「この世全体」に出てくる。そこでは、間違いなく「すべての人」を意味している。以上から判断すると、ヨハネの手紙一2:2の「全世界」は「すべての人」を意味すると推論される。
未熟な一神学生が、これら二つの釈義を公平に評価してバランスの取れた聖書的解決を提供しようと試みることは容易なことではないと思われる。
ここで木に竹を接ぐことになるかもしれないが、Brain G. Armstrongの著書であるCalvinism and the Amyraut Heresy (Protestant Scholasticism and Humanism in Seventeenth-Century France) 16)の結論から一部を引用したい。
“--- calling upon Calvin for support, he (=Amyraut) emphatically cautioned against trying to penetrate the mysteries of God’s secret counsel. --- According to his revealed will God has shown himself merciful to all men. And upon this revealed will we must base our theologizing, --- --- In conclusion, --- I would maintain that his claim is substantially correct. ---Calvin, too, taught that Christ died for all men. ---Calvin, too, taught that predestination must be properly discussed under the work of the spirit. And Calvin, too, taught that predestination is only a legitimate topic in theology as an ex post facto explanation of the work of grace.---”(pp. 267~269)
いずれにせよ、私としては、Van Rulerゼミで、CalvinistもArminianも病気である、と教わったことは大きな慰めであった。相対的な人間の世界における絶対的な確信は本来あり得ない、というArnold van Rulerの言葉は傾聴に値する。
また、ファン・ルーラーの聖霊論や終末論を学びながら、教えられ慰められた一つの希望、すなわち、いわゆるCalvinistとArminianとが聖書的な理解の一致に達することも不可能ではないことを信じて、その希望を将来の進展に託したい。
ただもし個人的な感想を述べることが許されるとすれば、聖書の中心的な教えがヨハネによる福音書3:16およびその文脈にあるとして、その旧約聖書的背景が民数記21章の「青銅の蛇」の物語にあるとすれば、確かに青銅の蛇を表す十字架を仰いだ者は生きたが、残念ながら明らかにそれを仰がずに死んでいった者もいたわけである。そこで、この「贖罪の範囲」は「制限的贖罪」の立場に立てば、死んでいった者たちのことを考えると、結果的には確かに制限的であったといわざるを得ない。一方、「普遍的贖罪」の立場に立てば、たとえ十字架を仰いでもその贖罪効果が普遍的でなければ、すべて蛇にかまれた者に対して十字架を仰げという福音宣教に意味がなくなるわけであり、基本的には同じ内容のことを見る視座と強調点が異なっているだけではないか(?)と考えられなくもない。そこで、救いの確信の視点からみて大切なことは、十字架のキリストに来る者は決して退けられることはない、という福音の宣教ではないかと思われる。
いずれにせよ、同じ聖書の唯一の規範性を信じ告白している者同士がもし共通の理解に達しないときは、どちらかが間違っているか、両者とも間違っているか、と早急に決め付けなくても、いずれもが、その全容を把握しきれない真理の一側面を見ているのではないか(?)と私には思われる。
ちなみに、Jacques Ellulの“What I Believe”(その中にはUniversal Salvationの章が含まれている)の翻訳者であるGeoffrey W. Bromilyのように、少なくとも相手の立場とその主張する内容を“if not wholly convincing”と批評しながらも、常に相手の信仰を積極的に理解しようとする柔軟でオープンな姿勢がなければ対話も成立しないし、両者が共通の基盤としている聖書の「主」の「とりなしの祈り」(ヨハネによる福音書17章)の実現を遅らせることになるように思われる。

3.「聖霊の証し」の聖書的な探求の問題について
いわゆる「聖霊の証し」の問題については、Bernard Rammの“The Witness of the Spirit”のような神学書があまり見られないのが残念に思われる。しかも、ラムの著作でも、その大半は聖書の内容を神の言葉として証しする聖霊の一般的な証しについてのものであり、ローマ人への手紙8:16に明記されているような、救いの確信にかかわる特殊な聖霊の証しに関する言及は多くはない
ラムによれば、聖霊の証は「内的なもの」(internal or secret or inner)である。それは「分かち合うことも、伝達することも、客観化することも」(shared or communicated or objectified)できない。聖霊が証しされる「型にはまった手順」(uniform procedure)はない。それは、あたかも人間が個人として異なっているように異なっている(varied and individual)と考えられる。重要なことは、それが「神的」(divine)なものであり「隠された御業」(secret work)であるために、「客観化できない」(incapable of objectification)ことである。まさにそのためにそれは「直接的」(immediate)であり「確かなもの」(certain and sure)であるとされている。17) もし「聖霊の証し」がそのようなものであれば、それ以上に語ることはできないのであろう。ローマ人への手紙の注解書に関しても、例えばCharles Hodgeの“Romans”の
当該個所に関する注解について、Martyn Lloyd-Jonesは、そこでホッジが何を言わんとしているのか理解できないと述懐されている。18)
それでは「聖霊の証し」について最も多くを語ったと筆者には思われるロイド・ジョーンズは何を語っているのだろうか。彼はローマ人への手紙8章16節だけで実に8回にわたり連続講解説教をしており、それは100頁にも及んでいる。彼によれば、聖霊の証は「最高・最大の確実性および確信の形態」(the highest and the greatest form of certainty and assurance)であるとされている。しかし、それも聖書の釈義的な講解というよりは、むしろ多くの聖徒たちの著作や経験などに基づく解説であるように思われる。その中には、John Wesley, George Whitefield, John Flavel, Howell Harris, Jonathan Edwards, Charles G. Finney, Dwight L. Moody, Charles Simeon, Charles Haddon Spurgeonなどの名が挙げられる。ロイド・ジョーンズによれば、“the sealing with the Spirit, or this testimony which the Spirit bears with our spirits that we are the children of God”として、基本的に「聖霊の証し」は「聖霊の証印」と同一のものとして受け止められている。そして、エフェソの信徒への手紙1章13節の聖書講解においても同様に「聖霊の証印」について語っている。しかし、J・I・パッカーによれば、それらは次のように、ギリシャ語の文法的釈義に基づき異なるものであるとされている。
“The truth is that it is the presence of the Spirit, as manifested by his total action in the life, and not any single element in that action, which is the ground of the believer’s assurance that he is God’s. Consequently the assertion that Spirit-sealing is chronologically a post-conversion event must be given up and the aorist participle of Ephesians 1:13 must be taken, in a way that is perfectly natural in Greek, to mean : upon believing you were sealed.”19)
以上のように概して納得させられる文献はあまり見られないようにも思われる。しかし、聖書を重視するプロテスタント宗教改革の思想を継承していく者として、その聖書的探求を疎かにしてはならないのではないでだろうか。
結論的には、特殊な信仰体験を期待せずに、ウエストミンスター信仰告白にあるように、通常の恵みの手段を信仰により忠実に用いて、自らの召命と選びを確かにするように努めることに落ち着くように思われる。ペトロの手紙二(1:5〜11)にある通りである。すなわち、「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとして、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
個人的な反省として、上記の「信仰には徳を、徳には知識を」とある聖書的段階を飛び越えて「信仰」に直ちに「知識」を加えようと努めてきたように思われる。また、「聖霊の証し」を求める前に先ず自らの「良心の証し」を確立する必要があるように思われる。もし、自らの良心がクリスチャン、すなわち、神の子としての証しができないような状況にあるときに、どうして聖霊の証を真実に求めることができるであろうか。聖霊が証しされるのは、単独にではなしに、「わたしたちの霊と一緒になって」である。パウロが、「キリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない」と告白するとき、パウロの「良心も聖霊によって証ししている」(ローマの信徒への手紙9:1)と記されている。「聖霊の証し」と「良心の証」とは密接に関係している。
さらに、聖霊が証しされるのは、キリストについてであり、聖書が証ししているのもキリストについてである。したがって、聖霊が「わたしたちが神の子供であること」を証しされるとき、それは、わたしたちがキリストに結ばれた者として神の子供であることを証しされるに相違ない。真実の意味において、神の子であられるのは、イエス・キリストお一人であり、キリストがバプテスマを受けられたとき、父なる神は聖霊によって「これはわが愛する子」(マタイによる福音書4:17)と証しされた。また、あの変貌の山上において「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ペトロの手紙二1:17)という声があった。わたしたちが神の子供であることは、私たちがこのキリストとの関係において、すなわち「キリストとの結合」が明確にされる形で示されるに相違ない。
それは、私たちが新生し、回心し、信仰によって義と認められ、聖化され、聖徒として堅忍していく過程において、すなわち、救いの全プロセスにおいてキリストが崇められることを通して示されるに相違ない。そして、わたしたちがやがて栄光化されるときに、それは完全に明らかにされるに相違ない。救いの確信の根拠は神の愛にある。それは人に対する神の愛である。その愛を受けた人は神を愛し、人を愛する者へと変えられていく。「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神はわたしたちの心より大きく、すべてをご存じだからです。」(ヨハネの手紙一3:19〜20)ハレルヤ!
これに引き続き、3章の21〜24節を引用しなければならないことに気付かされる。すなわち、「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができます。神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。」この「神が与えてくださった“霊”によって分かる」ことが「聖霊の証し」ではないだろうか?
しかし、この3章21〜24節は、徹底的な悔い改めなしに語ることはできないような気がする。もし神学が合理的に説明可能な一般科学と異なるとはいえ一つの学問であるとすれば究極的な聖書の奥義に近づき得ない限界がこの辺にあるのかもしれない。エームズが神学の本質について述べているとおり「神学とは神に生きる教え」(“Theology is the doctrine or teaching (doctrina) of living to God.”)20)に他ならない。SOLI DEO GLORIA! アーメン。

W.主要な参考文献
1)Robert Shaw, The Reformed Faith―An Exposition of the Westminster
Confession of Faith―(Christian Focus Publications, 1973)
2)岡田 稔『解説 ウエストミンスター信仰告白』(つのぶえ社、1976)
3)矢内昭二『ウエストミンスター信仰告白講解』(新教出版社、1969)
4)Herman Bavinck, The Certainty of Faith (Paideia Press, 1980)
5)Louis Berkhof, The Assurance of Faith (Eerdmans, 1939)
6)Bernard Ramm, The Witness of the Spirit (Eerdmans, 1959)
7)R. T. Kendall, Calvin and English Calvinism to 1649 (Oxford University Press,1979)
8)Paul Helm, Calvin and the Calvinists (The Banner of Truth Trust, 1982)
9)村川 満「カルヴァンとウエストミンスター信仰告白の信仰論(II)救いの確信について―R. T. ケンドールの諸説をめぐって―」(関西学院大学紀要58号、1989)ほか
10)野村 信「改革派の神学における制限的贖罪論再考」(東北学院大学キリスト教研究所紀要11号、1993)ほか
11)M. Charles Bell, Calvin and Scottish Theology : The Doctrine of Assurance (Handsel Press, 1985)
12)Joel R. Beeke, Assurance of Faith ―Calvin, English Puritanism, and the Dutch Second Reformation― (Peter Lang, 1991)
13)Westminster Theological Journal 54(Westminster Theological Seminary, 1992)
14)G. Michael Thomas, The Extent of the Atonement : A Dilemma for Reformed Theology from Calvin to the Consensus (Paternoster Press, 1997)
15)Jacques Ellul, What I Believe (Eerdmans, 1989) Translated by Geoffrey W. Bromiley from the French Ce que je crois
16)D. Martyn Lloyd-Jones, Romans―Exposition of Chapter 8:5-17― (Banner of Truth, 1974)
17)D. Martyn Lloyd-Jones, God’s Ultimate Purpose―Exposition of Ephesians One― (Banner of Truth, 1978)
18)J. I. Packer, A Quest for Godliness―The Puritan Vision of the Christian Life―(Crossway Books, 1990)
19)Brain G. Armstrong, Calvinism and the Amyraut Heresy ―Protestant Scholasticism and Humanism in Seventeenth-Century France―(The University of Wisconsin Press, 1969)
20)William Ames, The Marrow of Theology(Pilgrim Press, 1968)                              以上
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